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マヨネーズふたたび

「きょう、ママンが死んだ。」カミュ『異邦人』である。

「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。」吉本ばなな『キッチン』である。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」村上春樹風の歌を聴け』である。

小説において書き出しというか冒頭を覚えていることはままあるが、こと結末になるとむしろ覚えているものの方が少ない。結末を覚えている小説についてぼんやりと考えるとやはり真っ先に出てくるのが「僕」が「どこでもないところ」から「緑」を求めるラストで終わる『ノルウェイの森』で、その次はリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』である。

 

(真相は定かではないが)その断片を積み重ねて一つの小説をなす『アメリカの鱒釣り』は、その形式から村上春樹高橋源一郎に影響を与えたとされ、また、藤本和子による偉業ともいえるその名訳によって知られているところである。

47の断片からなるその小説のストーリーを語ることは難しい。そもそもお話があったかどうかも定かではない。ただ覚えているのは愉快なまでの奔放さである。

そんな断片からなる小説のラストは「マヨネーズの章」という章であり、その一つ前の章は「マヨネーズの章へのプレリュード」である。「プレリュード」で「わたしは、ずっと、マヨネーズという言葉でおわる本を書きたいと思っていた。」と語られ、実際、終章となる「マヨネーズの章」では「マヨネーズ」という言葉で終わっている。

このふざけていると言われてもおかしくないラストを読んだ時、とても風通しの良い思いがしたことを今でも覚えている。このラストには、「小説」という入れ物の広さというか自由さが表れていると思ったのである。

 

物語ではなく言葉の流れを読むのが好きな僕が「詩」ではなくむしろ「小説」という言語芸術に惹かれるのはおそらく「小説」という空間が広くて息苦しくないからであろう。そこはどんな風に遊んでもたいがい許される場所なのである。