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ガソリン切れ・・・

いよいよこのブログも書くことがないのでよくわからない話をよくわからないまま書いて載せたいと思う。

ジャック・ラカンの本は読んだことがないけれども、ラカンの解説本は何冊か読んだことがあって、そこでは必ず「私の欲望とは他者の欲望である」という意味の言葉に出会う。なぜそうなるのか理論的に十分に把握できているわけではないが、この言葉に出会ったころからこの言葉はすんなりと僕の身体の中に入り込み馴染んでいった。

他では石原千秋夏目漱石のテクスト読解でよく引用するルネ・ジラールの「欲望の三角形」なんかもすんなりと入ってきたものの一つである。

<「欲望」とは「自分」が望むものである>と(普通?)思われているものをひっくり返し、<「欲望」とは「他者のものである」>というこの言説が僕にすんなりと入ってきたのはおそらく僕の性分に合っていたからだろう。

 

小学生の頃に「将来の夢」について文章や絵を描いたりする機会があるが、いつも僕はそのお題が与えられると困っていた。今でも覚えているのだけど、小学校低学年のときに、将来の夢を記入しなくてはいけなくて、なんとなく親の家業を継ぐものだろうと思いその職業を記入したら後日母親から「別に継がなくていいよ」と言われた。その時は「そうか。継がなくてもいいのか」と思ったことを覚えている。

その後高学年になり今度は「将来なりたい職業」を絵に描かなければいけなくなった。当然「なりたい職業」などはなく(思えばこの頃から高等遊民の素質があった?)、家業を継ぐということもなくなった宙ぶらりんな僕はなんとなく「寿司屋」になって寿司を握っている絵を描いたような気がする(どうして寿司屋にしたのかは不明。多分構図的に描きやすかったのだろう。)。

 

思えば、僕は高校受験、大学受験と受験勉強はそれなりにしっかりしたのだが、これは多分母親の欲望を内面化していたからだろうと、今から考えればそう気づく。もちろん僕自身にも自分より下に見ている同級生よりもレベルの低い所に行きたくはないという欲望はあったのだが、何よりの原動力は母親と大学受験ではお世話になったある高校の先生の欲望(というか期待)に応えたかったからだと思う。その証拠かあまりとやかく言われなかった就職活動では頑張れなかった。

 

こうして「欲望」について良く分からない文章を書いて、ぼんやりと「欲望」について考えてみたのだが、畢竟、僕は「責任」を抱え込みたくない人間なのだと思う。自分が何かを欲し主体的に行動をすると、そこではその主体性ゆえの責任が発生する(と僕はどこかで考えている)。しかし、他人からの欲望というか期待を経由して行動していると、結果的に僕の行動であっても、それは根本が僕のものではないので、「責任」はそれほど感じなくて良い。

と、つらつらと書いてきたけれど、ますます自分でも結局なにが言いたいかわからなくなってしまった。これ以上書いても埒があかないし、空欄も埋まったのでこのあたりとする。

いろいろと邪推されそうで、その邪推は的を射ているのかもしれないけれど、その邪推よりかは、僕は僕自身のことを把握しているつもりでいる。と、ほんとうにわけがわからなくなってしまった。文章はいつだって不完全だ。やれやれ。