読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

後天的本好き。

なんというか最近本を読んでいない。もちろん本は買っている。しかし、以前にも増してそれを読んでいない。多少環境が変わって精神的になんやかやだったとか、ほぼ毎週末誘ってくる友人に連れられて朝まで飲む回数が増え、その結果本を読む気になれない休日が増えたとかいろいろな言い訳はできるがとにかく本を読んでいないのである。

高校生の頃に出会った先生の影響と、敬愛する石原千秋の「文系の学生の本分は読書である」というような文章を読んで以来、それなりに「本を読むこと」に重きを置いて生活してきたが、最近はその重しが少しずつ軽くなってきている。なるほど、ちょっとしたアイデンティティ・クライシスである(とはいっても高校以前はほとんど本を読まない人間だったので本来の自分に戻りつつある気もするのだが)。

 

では本を読まなくなって何をしているかというと別段何もしていない気がする。別段何もしていない気がするのだが、声優のラジオを聴く時間は増えたような気がする。

田村ゆかりのラジオが三月で終わり、新しい安息の地を求めネットの広大な海(要はYouTubeのリンク)を巡り、茅野愛衣佐倉綾音悠木碧先生の過去のラジオ音源を聴いてるうちに本を読む時間がなくなっているのである(とりあえず巡り巡った結果、佐倉綾音と大西沙織の『佐倉としたい大西』、内田真礼の『内田真礼のおはなししません?』の継続視聴がケッテイ)。

 

そういえば声優のラジオなんて何が面白いのかと昔友人に言われたことがあるが、僕は声フェチであり話し方フェチなので、そこまで内容が面白くなくても、好きな声優がわりかしご機嫌に話していれば満足なのである。

思えば僕の小説の楽しみ方も似たようなもので、お話の内容よりもそのお話がどのような文体で書かれ、どのように語られているかが重要なのである。村上春樹だったら(内容はともかく)成熟した文章である最近のものよりも人工的な初期作品の方が好きだし、現代詩の方法を小説に取り入れた高橋源一郎は最高だし、ドイツ語という日本語の外にでることで独自の表現を紡ぐ多和田葉子も素晴らしいし、川上未映子の饒舌も阿部和重の人工的な文体も前田司郎の気の抜けた文章も中上健次のあの薫り立つ文体も大好きなのである。

そもそも小説とは言葉で出来ているものである。まず言葉があり、そのあとにお話が来るのだ。

「彼女は机に座った」などという日常の言葉ではなく「彼女は机の上にお尻を乗せた」といった類の異化された言葉を楽しむのである。

 

 生まれ持っての本好き(先天的本好き)とは違って、高校の先生経由で本を読むようになった(後天的本好き)僕は、もしかしたらいつか本を読まない生活に戻るのかもしれない。そうなるかは今はわからないけれども、とりあえず言えることは、かつて大学受験と思春期のなんやかやで色々と辛かった時に、小説に救われたという感覚が僕にはある。だからきっとまた小説が、小説だけが僕を救ってくれるのではないかという信仰にも似た何かが僕の中にはあるのである。