読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ぼくは文章が書けない

なりゆきで文章を書くことになったがそもそも僕はあまり文章を書くのが得意ではない。

なにか文章を書こうとすると①何を書いたらいいのかと途方に暮れ、②どう書けばいいのかで行き詰ってしまう。

 

思えばこうした症状が出始めたのは大学生の頃からで、当時のバイト先の有線から垂れ流れる湘南〇風や西〇カナのようなやたらメッセージ性だけが強い曲をバイト中延々と聴かされ、そのおしつけがましさと自己陶酔的なはしたなさに嫌気がさし、「何も意味することのない、ただ記号と表象だけが漂っている表現こそが至高である」と考えるようになったのだ。

そうして、何か表現しなければならないことは何もないという感覚が僕の中で根を張り、何を書いたらいいのか途方に暮れるようになったのである。

とはいえ、生活をしていると、それでも何かを書かなければいけない時がある。そういう時は適当に何かをでっちあげる決心をする。決心をするがいざ書き始めようとすると今度はどう書いていいのかわからず結局書けないのである。

普通の文章で書けばいいのだろうが、同じく大学生の頃に敬愛する高橋源一郎がどこかで「言文一致体で始まった日本文学は何を書くかではなく、いかに書くか、つまり文体の歴史である」というようなことを書いていて、それ以来僕の中で「いかに書くか」が問題になったのである。

とはいえいくら僕の中で文体が問題になっても所詮は凡庸な人間。自分の文体なぞ持ちようもない。そこで編み出した解決策が文体を持っている人間から「引用」することである。書きたい言い回しや語句を適当に思い浮かべ、それを頼りに文章をなんとか書きあげる。なのでたいてい出来あがった文章は書いた本人からすると継ぎ接ぎな文章にみえる。

 

ところで「引用」をして文章を書く原因はもう一つある。

それは学生の頃に、せっせと構造主義やらポスト構造主義の本を読んだ結果、どこかで所詮私とは外部(アーキテクチャ)によって規定された人間である、と思っているのであろう。結局「私の欲望とは他者の欲望でしかない」のだ。

なのでロラン・バルトがいうように文章が同時代的な言語の共同体と個人の人となり(文体)の交差する場所で生まれるのだとしたら、文体を持たない僕は結局共同体から引用して文章を書くしかないのである。

 

 

せっかくなので「文章」について書こうと思ったら、なんとも固い文章になってしまった。(次があるか分からないけれど)次回はもっと軽やかに書こう。